怒っている人は傷ついている。
周りとの調和のために我慢してきたことがあったり、大義のために自分を犠牲にしてきたり、「普通はこう」という目に見えぬ不定の概念から外れることを恐怖して欲望を抑え込んできたり。
好きなことを優先して生きてはいけない、と言う人の大半は、心から何か大切にしたい物があって、でもそれがいま叶っていなかったり誰かに否定されてきたり我慢しなくてはと思い込んできたりした、要するに「深く傷ついた」という経験の持ち主だと思う。だから好き放題生きている(ように見える)人を批判したくなる。
そういう人を目の当たりにすると、自分の傷が疼くから。
抑えなければ他者から愛されない、と思い込んで我慢してきた自分が報われない気がするから。
世界各地で、日常生活の中で、ディコトミー的な分類体系や思考枠組みが、私たちの間に排他的分断や暴力を引き起こしている。その根底にあるのは、あるがままの在りようをゆるされないが故の傷みを麻痺させずには生きられなかった人々が、その傷みを看ることで自分が何者で在る/り得るかを知ることに抱く怖れなのではないだろうか。
(菊池真理「内線後スリランカのフィールドで震わされ、〈わたし/たち〉の傷/悼みを書くということ」『文化人類学』89(3), 2024)
…まあ、私の理解の仕方や菊池先生の主張が正しいかどうかはさておき、私はそう考えて生きている。
だから怒っている人や不機嫌な人を見るとまず「傷ついているんだな」「傷が刺激されてるんだな」と思う。
その捉え方をした上で、さて、私は他者から不機嫌や怒りをぶつけられるのが嫌いである。不機嫌な態度をとられると「コノヤロー!」と思うし、拗ねや怒りをぶつけられるとショックだし、なんなら腹が立ってしまう。
昔はそうやって腹を立てることを「良くないこと」だと思っていて、怒っている人と同じ土俵に乗ってはいけないとか、相手は傷ついているんだから理解してあげなきゃとか、あるいは周りの空気に引っ張られずにいつでもご機嫌にしていなくては、と思っていた。
でも、それこそが感情や本音の我慢で、負の連鎖を生むのだ、とあるとき気が付いた。腹が立ったのだからちゃんと怒りを感じればいい。そのほうが心が早く健やかになる気がする。
ここで言う「怒りを感じる」とは、誰かに怒りをぶつけるということではなくて、他者の態度を不愉快に感じている自分の心を許すことだ。自分だけは自分のどんな感情も感覚も否定しない。誰かに「私は腹を立てているんだ」と表明しなくていい、わかってもらおうとしなくていい。ただただ自分だけは不愉快さや怒りがあることを認めて、そう感じることを許す。
私は仕事を複数請け負っているので職場もいくつかあるのだが、その中のある職場の社員さんはなんだかたいてい不機嫌そうにしている。どうやらいつも忙しいらしい。
苛立ってピリピリした空気が彼女から溢れ出ていて、ついでにしょうもない小言として口からも溢れ出していて、そんな彼女とペアを組んで仕事をやらねばならない私は「めっちゃ腹立つんですけどー!」と思いながら仕事を片付けることがある。「うるせえなあ!」と腹を立てることもあるし、トイレで地団駄を踏むこともよくある。
そうやってちゃんと怒りを感じておけば、帰宅するまでに腹立たしさは雲散霧消、まあ忙しさと疲れで不機嫌になっちゃうのもわかるよ、と思える心の余裕まで(ときどき)生まれる。
もちろんそんな寛容さはなくてもいいけど、少なくともやりとりを思い出すたびに何度も不愉快になるようなことは劇的に減ると思う。「いつもご機嫌」というのは、常に良い気分でいるわけじゃなくて、切り替えが異様に速いことなのかもしれない。それは怒りや悲しみのような感情にも蓋をしないで向き合うことを習慣づけた結果なんじゃないかな。
自分の怒りを許せないなら他人の怒りも許せまい。
まずはやっぱり自分のメンタルケアを一番大切に過ごしていきたい、と改めて思う。

