日記を細かく書く余裕がなくなってしまった。というか、エッセイや長めの文章を書くことに力を入れたいと思っていると、日記として短文を公開することに違和感をもつようになったというか。日々感じていることや思い出したことを長めに記述したほうが良い気がしている。タイトルも、日付だけだと何が起きたのか、何を感じていたのか思い出すのに時間がかかるから、ちゃんとつけようと思った。
ばたばたして日々の時間的余裕がなくなっているのは、7月から着手したことがたくさんあるからだ。資格取得に向けて新しい勉強を始めたり、来年度の仕事の獲得に向けて動きはじめたり、英語の勉強をやり直したり、となんだか変化の多い月だったと思う。動き始めの月というのかな。時間の余裕はたしかに減ったけど、やりたいことができていて、日々はとてもきらきらしていた。
特に、毎度のことながら月の後半はとても忙しい。人との約束とかライブの予定とか仕事の締切とかがいっぺんにくる。ばらして調整すればいいのに、日程調整の下手さは生まれつきなのかもしれない。もう何年もそんな風に月末ばたばたして暮らしているから、それすらも一つのリズムになってだんだん慣れてきた。
インド関係の人たちに再会できたことや、世田谷のほうにお気に入りのお店を見つけられたことが、特に嬉しい人との交流だったな、と振り返って思う。インドに留学していたのは2015年から2017年にかけてだったから、かれこれもう10年経つのだ。ここまで長くご縁が繋がるとは思っていなくて、驚きもあるし、その縁が続くように出会える場を維持し続けてくれている関係者の皆さんに感謝と尊敬も覚える。本当にありがたいことだ。新しく始めることも大変だけど、維持することの大変さはもっと計り知れないものだと思う。
感謝と敬意。私が人生で大切にしたいと思っていることたちは、だいたいこの言葉に集約される。自分の気持ちに素直であることや自由であることも、それを与えてくれる周囲の人々や環境に対する感謝と敬意がベースにないと、ただの暴走やわがままになってしまうし。他者の振る舞いや態度から改めて自分を振り返るというか、反面教師にしようと感じる出来事も7月末頃にあった。
そういえば以前、子育て中の知り合いが「あなたは自分の親に対して“もっと自分の好きにさせてくれよ”と本当は思っているのではないか?親だって“自由にさせてくれ、迷惑をかけないでくれ”と思っていると思うぞ」という話をしてきたことがあって、それは実はあんまりピンとこない感覚なのだけど、そこまで関係が深くない人からすれば私の行動や生き方は「わがまま」に見えるのだな、ということはその時に理解した。ただ、その指摘がピンとこなかったというか、むしろ親と私の関係が穏やかで良好なのは、ベースに感謝と敬意があるからなのかもしれないと今になって気がついた。親子であっても「他者」なのだし、彼ら/私の心を束縛したり制限したりすることはできない。他者には感謝と敬意を払うものだから。これはバウンダリーの考え方に通ずるところがある。
(そもそも私の親は、突然インドに行きたいと言い出して専門学校の進学を辞めて大学受験したり、修士出て就職した会社を突然辞めてインド留学する私のことを温かく見守ってくれる人たちで、十分すぎるくらい私の意思と自由を尊重してくれているのだ。そして私も、突然仕事を辞めて群馬の山の中に引っ越した両親を、ときどき帰省しつつ健康にやっていてくれと見守っている。今思えば、似た者親子かもしれない)
※ちなみに、別にその知り合いの考え方が悪いとも思っていない。当時の彼女は子育ての真っ最中だったから、たぶん相当疲れていたんだと思う。もしかしたら彼女こそ、子供や家族、あるいは誰かに「ありがとう」を言ってもらいたかったのかも。でも当時の私はそこまで気が回らなくて、全然そんなことないよ、と反論だけして終わってしまったけれど。。
そんな感謝の一環だったわけではないけれど、いつもお世話になっている飲み屋の店主が手術を受けて、病み上がりはしばらくお店に立てなくなると聞いたので、2日間ほど代理店主をやらせてもらった。20時ごろに開けて26時頃まで営業するバーで、その営業をたった2日連続でやっただけなのに、眠りが浅かったり怠さが残ったりしてなかなか大変だった。遅くまで店を開けてくれている店主たちの体には相当な負荷がかかっているだろうな、と実感。彼らのおかげで酒が飲める。本当にありがたいことだよね。

