2026.06.19-06.23

Diary

0619.Fri

午前中、報告会の原稿に向かい合うもののたいして進まず。気分転換がてらランチは外食にした。西荻窪の古民家カフェ「棗(なつめ))」の定食は心がほろっと解けるような、優しくて丁寧な味が魅力。

そのまま近所を散歩してジェラート食べたり公園に寄ったり。帰宅してアイスカフェラテ飲みながら、借りたままだった落語のDVDを見たり。西荻の飲兵衛と落語の登場人物には妙な親和性があるよなあ、そこがいいんだ、なんて思いながらゴロゴロと夜を過ごす。

私の日々には論文のヒントになりそうなものがあちこちにある、というより、あらゆるものを文章を書くための糧にして生きている。本を読むのも音楽を聴くのも映画を見るのも、散歩も居酒屋で飲むのも猫と戯れるのも、すべて、そのときの感覚が文章のヒントになっている。糧にしてやろう、利用してやろう、というつもりで見ているのではなく、ただ自然とそれらが私の栄養になり、文章として花開く。きっとみんなそうなんだろうと思う。インプットはアウトプットのために、アウトプットはインプットのために。


0620.Sat – 0621.Sun

知人のお店の1周年祝いへ。子供の頃の秘密基地でずっと遊んでいるような感覚で過ごす、楽しい時間だった。コーラの銘柄当てゲームも楽しかった。人が集まると奇跡が起きる。出会いと偶然について、また論文のヒントになるような経験ができてよかった。

夜、でろでろになるまで飲む。人と飲み、別れ、また別の人と合流して飲み、また別れる。人を渡り歩く。

そうして気づいたら朝、西荻窪の「朝市」というイベントを徘徊していた。懐かしい人たちとも再会して嬉しい(がほとんど記憶にない)。今度はちゃんと記憶がある状態で参加しよう…。帰宅して泥のように眠る。


0622.Mon

昨日の帰宅途中に激しく転倒したのは覚えているのだけど、足がどんな状態になっているか起き上がるまで気が付かなかった。とりあえず応急処置でタオルを巻いて寝た足は、気づいたら血がタオルについてそのまま固まっていて、剥がそうとすると呻き声が出てしまうくらい痛かった。すぐシャワーで洗い流す。内出血のあともひどい。飲兵衛はこれだから…と自分に呆れる。まあ、みんな通る道だ。私の怪我だって一度や二度ではないのだし。

夜、完熟梅を砂糖に漬ける。昨年教わった発酵完熟梅シロップを作りたいのだけど、ちゃんと発酵してくれるだろうか?


0623. Tue

仕事の後、夜カフェで作業。相変わらず発表原稿はうまくまとまらない。構成を書き上げるときは手書きのノートが相性良いので、カフェの机でがりがりと構成や議論の落としどころを練っていた。これさえできればあとは無心に頭の中身をタイプするだけ。それがまあ大変でもあるのだけど。

こうやって原稿を書いていて実感するけど、研究は本当に楽しい。私から見えている世界、感じているもの。それらを表現するために理論がある。

アート系の人にこの例えをすると理解してもらえることが多いのだけど、写実主義や超現実主義、そういう絵画の技法や理論は、自分の目に見えるもの、美しいもの、心動かされるものを、どうやって人と分かち合えるか追求していった先に生まれたものだ。主義や理論が先にあるわけではなく、わかり合いたい、分かち合いたい、美しいものや心動かされたものをそのまま出力したい、自分の手で顕現させたい、その欲求が先にあった。

学術における「主義」「理論」もそんなものだ。私の目に映る「世界」「人の営み」の在り方を、より多くの人と分かち合いたい、わかってもらいたい。私が文学研究者であるミハイル・バフチンの「多声性(ポリフォニー)」という概念を使って、人の営みを説明しようとする動機は、そこにある。私の目に、人の営みや人の暮らし、それらが織りなす社会や世界は、愛おしく見える。笑ったり喜んだり怒ったり泣いたり、愛も憎悪も嫉妬も後悔も有頂天も怒髪天も、さまざまな感情に揺れながら生きる人間という生命体は本当に愛らしい。それを、私は記述していたい。そのために理論の手を借りる。

きっと私たち人間は、ひとりの幸福を噛み締めたその先に、それでもどうしても他者と分かち合いたい欲求を持っている。現代社会ではひとりでいることに恐怖や悲しみを覚えて他者を求めるために「承認欲求」が暴走する人も増えているように思われるのだけど、本来、「承認欲求」とは、自分という存在と他者という存在を承認し分かち合うための尊い欲だったと思う。(欲求に下賎も高尚もないのだが)

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