8月末に弾丸で実家に帰省し、ウォーキング大会に参加して、翌日には東京に戻って仕事や人に会う約束を駆け抜け、そんなことをしていたら9月に入ったので月1回の間借り営業(&フードの仕込み)もこなし、インド旅行の各種準備も整え、さっき久しぶりに畳にごろんと横になった。肩と腰とお尻がコチコチに凝っている。愛用の「中山式快癒器」の上に寝転がって、ぼんやり天井を眺めた。
同じアパートに住むおばあちゃんは痴呆が進んでいて、最近は窓を開けて大爆音で歌謡曲を流す。今は演歌の気分らしく、さっきから細川たかしの豪快な歌いっぷりが私の部屋に響いている。演歌を聞いたからではないけれど、今夜はライブを見に行こうと思った。
最近、書き物がさっぱり進まない。なんとなく原因はわかっている。忙しさや疲労のせいではなく、もっと根本的なところに原因がある。
私の癖を身近でよく知ってくれている人は、私のことを「漫画的だ」「ドリーミーだ」「情熱的だ」と言う。字面だけだと良い意味も悪い意味もありそうだけど、私に対してはだいたいややネガティブな意味を込めて使われることが多くて、でも私はこの言葉たちが嫌いじゃない。的確だなあと思うくらいだ。
そしてそのネガティブな響きは、彼がその生き方を求めつつ拒絶しているがゆえなんだろうとも思う。人は、自分が求めていて持っていないものを、ネガティブに評価しがちだから。
本当にいらないものや興味ないものには感情が動かないし、冷笑や見下しも含めた他者への否定的な感情は、心の傷つきが別の形態をとっているに過ぎない。「あなたは情熱的だ」という言葉の裏にある、“生きること”に没入できない、俯瞰的に一歩引いた目で人生というプロットを眺める人の傷。その俯瞰力の高さは私にはない一つの立派な才能で、私がそれをうらやましく思っていることを、彼は知らない。
そんな風に情熱的だ漫画的だなんだかんだと言われて、常に地面から足が数センチ浮いてるのではと思われるような生き方をしていたって、私は人の目が怖い。人の批判が怖い。人の意見が怖い。人の「当たり前」から外れることが怖いし、衝突することや摩擦が起きることが怖い。
私と根本が似ているパートナーは、そうであるがゆえに俯瞰して全体を引いて見て、衝突が起きない生き方やコミュニケーションで“全体”とうまく付き合っている。
私は、同じ恐怖を抱えながらも、どうしても私から見える世界にこだわってしまう。こだわっていて、でも、実のところ完璧な没入はできていない。中途半端なのだと思う。完全に漫画の中で生きているわけではなく、作者と主人公を行ったり来たりしているのが私の生き方の癖なのだけど、最近、それが“連載打ち切り寸前の作者”のようになっている。読者の反応のように「他人の目」を気にしすぎていて、文章が、書けない。
私はSNSでよく見るような、有名人の炎上やら不倫報道への批判やらに納得ができない。
それはつまり、私はあなたたちが正しいと言っている「常識」や「当たり前」に納得できない、ということだ。というか、そういった借り物の価値観(あなたはそれを生来のもの=自分のものだと思っているかもしれないが、社会に生きる人間の価値観は基本的には外部の刷り込みや環境要因で形成されている)で他者をジャッジして良いとする考え方に納得ができない。
「常識」「共感」をもとにした善悪で他者を裁く人は、対象者の心の厚みに気がつかない。人の心の複雑さ、矛盾や葛藤、そういった美しいものたちが見えなくなってしまう。矛盾は間違っているものとされ、葛藤や悩みは無駄なものとされる。目に見えないものは、存在しないものとする。
その世界が、私にはとっても生きづらい。
それだけの(情熱的で漫画的な)持論が私にはあるのに、これを文章として表明し続けることが怖い。道を外れることや他者との調和を乱すことが怖い。最近はずっとそうだ。フリーランスでいることに不安を覚えたり、“普通”の生き方のようなものを探してみようとしたり。
以前はもう少し平気だったのになあ。もっともっと漫画的で情熱的だった。自分の人生にもっと没入できていたと思うのに。
そういえば最近、自分ひとりの時間をゆっくり過ごすことができていなかったと思う。私が信じたいのは自分の心や体の感覚なのだから、もっと一人で過ごす時間を増やして、ふわふわと感じることをそのまま文章にしたらいいんじゃないか。
そうは思いつつも、やっぱりこの文章を読んでくれる人の目を意識してしまう。逃れられないのだとしたら腹をくくるしかないのかもしれない。
大家さんに何か言われたのか、気づいたら演歌は遠くにうっすら聞こえる程度になっていた。
ライブに行かなくては。
