蓮沼執太のフリーライブは池尻大橋の元ガソリンスタンド、現空き地で行われた。
あちこちに植物が配置された空間に、人がぎゅうぎゅうに押し寄せていたこともあり、なんだか温室の隙間から蓮沼執太を覗いているような環境で音楽を聴いた。人が多すぎて蓮沼氏の演奏自体は見えなかった。見えなくても音が聞こえたらそれでいいので、音楽にあわせてふらふら揺れた。
サントリーホールで演奏し、パラリンピック開会式の音楽監督も務めたような人が、ガソリンスタンドの跡地で無料のライブをやっている。すごく自由だなあと思った。彼は自分の「面白そう」「やりたい」に素直で、だから実験的な音楽も作るし、かと思えばとてもポップな曲も作れるんだろう。
不思議なことに、蓮沼執太の音楽を聴くと私はいつも「在りたい自分」を思い出す。こうで在ろう、こんなことをしよう、もっと自由に生きよう。そういう決意のようなものを与えてくれて、やっぱり音楽ってすごいなあ、と考えていたら目の前を鍵ハー吹きながら当人が通り過ぎていった。自由だ。
前回の日記で、社会の常識や身内の話だけで他者を批判できる人に対する怒りや嫌悪を発露させたけれど、よくよく考えれば、そのネガティブな気持ちは自分にそれを我慢させているからだろうという結論に達した。つまり、「私は人間関係や場の空気に配慮してこんなに自分の意見を我慢しているのに、あなたたちはその配慮のコストを払わないで好き勝手なこと言ってて、ずるいよ」と、不均衡に対して怒っているのだと思う。
さらに突き詰めて考えてみると、「自分の尺度による“正しさ”や感情に100パーセント没頭できて、良いなあ」という羨ましさを感じている。
ここは私の言論空間だからもう言葉を選ばずに書いていくけれど(それでもその配慮のなさに自分で傷ついてしまう愚か者なのだけど)、
「あらゆる人にそれぞれの真実がある」「それぞれの事情がある」とどうしても考えてしまう私は、そんな他人の背景や多角的な視点をぜんぜん考慮しないで「私(or○○さん)が正しい!あいつが悪い!」と100パーセントの熱量で思い込める人は、ある意味で究極の無知だなあと思う反面、超無敵だろうなとも思う。私は自分の意見を出すときでも、常に「でも相手にも言い分があるだろう」「相手の気持ちもなんかわかる」「私の視野が狭いのかも」と葛藤しながら、それでも苦心して言葉にしている。もともと言語化は得意なほうだけれど、私はその言語化を相手に合わせて伝わるように、そして誰も私の言葉で傷つきませんように、と思いながら発しているから、負荷はそれなりにかかっているのだ。この文章のように他者への配慮を捨てて頭の中にある言葉をそのまま書いたら、もっともっと簡単に、悟空が重りつきの胴着を脱いだときのようにフルパワーで書けるのに、と思っている(多分、私は毒舌のきらいがある)。
後先を何も考えず、葛藤や内省もせず、100パーセント自分の正しさを疑わずに叫べる気楽さや安易な全能感と、それだけ自分の“正義”に自信を持てる生き方に、羨ましさを感じていないと言ったら嘘になる。めっちゃ羨ましい。嫌味ではなく純粋に。私だって気楽に生きたいもん。
それでもそこにブレーキが自動でかかるのが、どうしても他者の視点を意識してしまうのが、私の生来の性質なのだとしたら、その性質でもってやるべきことがあるからそうなのだ、と思うことにしている。
同じような考え方で生きている人とそんな話をしていたとき、彼は「どこにもいかない自分でありたい」と言った。何かに依存しない、何かに身を預けない。そんな自分でいたい、と。
私は彼ほど自立的ではないから、状況に身を任せてぽかんとしていることも多いのだけど(そしてそのほうがうまくいくタイプなのだけど)、でも、何かに依存したくないというのは本当にそうだなと思う。ダサい自分でありたくない。一つの尺度に依存せず、自分で考え続けられる人でありたいし、考えるときには「目に見えているもの」だけでなく「見えていないもの」も含めて考えられる人でありたい。
彼の言葉はすっと心にしみ込んで、闇落ちしかけていた私はまた元の「在りたい私」の道に戻ってきた。
(※実はさっきの文章は言葉足らずで、私が「100パーセント自分の感情や自分の視点だけで怒れていいなあ」と言っている人たちが本当に葛藤していないのかどうか、つまり他者には他者の事情や背景があることを認識している上で「それでも私はこの価値観を選んで怒る」と決めて怒りに没頭しているかどうかは、発露された怒りという最終形態だけを見てもわからない。私の目から見えない数多の葛藤を経た上でそれでも怒っているような人もいるかもしれないのだ。けど、そういう「見えないものへの配慮」を重ねると、最終的に何も言えなくなるし何も書けなくなる。だからその文章ではあえて無視した)
葛藤や矛盾や混乱を隠さず、自分の正義にこだわれる人間がめっちゃ羨ましいと思いながらこの文章に辿り着いていることを開示しつつ、それでも自分の意見や感情に没頭するなら、これから先も文章が書けそうな気がする。それくらいはダサくてもいいでしょう。毒舌でもいいでしょう。在りたい姿を見失わない自分でいれば、それでいいでしょう。
彼といい蓮沼執太といい、他者の世界から生まれる音楽や言葉は、いつも私を救ってくれる。やっぱり私もそうで在りたいと思った。影響は与えるものではなく、受けるもの。自分が誰かの人生に影響を与えられるなんて妄信はずっと昔に捨てたけど、ただ、受け取ったものを次につなぐくらいのことは考えてもいいんじゃないかと最近は思っている。
