目黒シネマでの特集上映を経て、最近ずっと2000年代初頭の邦画について考えている。
以前の日記でも書いたけど、松田龍平や新井浩文のデビュー作公開当時の私はまだ中学生だった。一人で映画館に行く習慣もなかったし、親もあんまり映画は見なかったので、私が彼らや浅野忠信や浅野忠信や市川隼人やオダギリジョーが出ているような邦画を見るようになったのは高校生になってからだ。主にレンタルビデオ店で無造作に借りてきた洋画や邦画のDVDを夜中に一人で見ていた。まとめて借りるとお得になるシステムを利用して大量に借りて、意味もわからず再生し、「見た」という事実に満足する、そんな女子高校生だったのだ。だからカメラワークや役者さんの演技はもちろん、ストーリーさえも十分に理解していなかったと思う。それでも洋画より邦画のほうがまだ理解しやすかったのか、だんだんと洋画より邦画を好んでレンタルするようになった。
なぜ急にたくさん映画を見るようになったのか。それはオーケンの影響なのだ。
中学3年生のときにクラスメイトが貸してくれたCDで筋肉少女帯を知り、大槻ケンヂの描き出す世界に強く惹かれ、オーケンのエッセイを読み漁った結果、無事「サブカル女子」として爆誕した岡本は、浅はかにも「とにかくたくさん映画を見て、いつかオーケンのライブに行って、オーケンと話す機会があったら映画の話をしよう」と思った。まじでなんでライブに行って舞台に立っているオーケンと映画の話ができると思ったのか謎なのだけど、私はまあこういう地に足のついてない飛躍した結論をはじき出す脳みそを搭載した人間なので、あの頃はその飛躍を何も疑わずにせっせと映画を見ていた。
そんな不純な動機で見始めた映画だったけれど、だんだん映画自体を楽しい、面白い、と思うようになっていった。それはたぶん、思春期まっただなかの私が、そのひりひりしてどうしようもなくて思うように何もなっていない(ように感じる)、自分が何者なのかわからない、何者であると見てほしいのかわからない、でもとにかく見てほしい(でも何を?)、という混乱した自意識を抱えた時期の中にあり、ゼロ年代初頭の邦画の主人公たちにどこか共感していたからだと思う。
これも以前の日記に書いたけれど、今回『青い春』『アカルイミライ』の再上映を見て、主人公よりも周囲にいる脇役や主人公を支える役のほうに共感するようになったのが、当時との大きな違いだった。『青い春』で言えばマメ山田演じる花壇を管理する教師、『アカルイミライ』で言えば藤竜也演じる有田の父親、のように。「咲かない花はないと信じることにしています」という台詞の、信念と諦めを同時に含んだような響き。「なんでも言ってくれ」と言いながら「お金のことはどうしようもできない」と息子(加瀬亮)に言って呆れられる父親の現実的なダサさ。
折り合いをつけながら生きるしかなくなった大人の姿に共感するってことは、私もどこかでいろんなものを諦めながら生きているということなのかもしれない。夢を真っすぐ語れなくなったというか。だって「夢はかないます」と言うより、「夢はかなう、そう信じることにしています」という言葉のほうが、今の私にはしっくりくるのだ。
こんなふうに当時の印象や共感の対象が変わってしまったことを、寂しいと思う自分がいる。できることなら、ずっと子供のままで居たかった。ずっと素直にもがいていたかった。それがもうできないことを知ってしまっているから、再上演で見たこの映画たちは別の角度から当時と同じくらい真っすぐ私の心に刺さった。
知らなかったことを知ると、知らなかったときの私には戻れない。知ってしまったなら、知ってしまったあとの世界で、腹を決めて生きるしかないのだ。見なかったふり、聞かなかったふり、気がつかなかったふりは、自分の心に不正直だから。不正直はやがて心を食いつぶす。
でも、だからこそ、知らなくていいものは知らないままで居ることを選んでも良いと思う。
市原隼人が主演した『偶然にも最悪な少年』という映画がある。当時はネットでレビューを見たりすることもなかったので今回この記事を書くにあたって調べるまで知らなかったけれど、なんとネット上での評価がとても低い。たしかに主人公ら3人組が無軌道かつ無計画だったり、ファンタジーにしか思えない(死体が腐敗しないなど)描写があったりするけれど、そんなの多かれ少なかれ他の映画でもあることで、特別にひどかった記憶もないのだけどなあ。
私の記憶の中では、この映画は結構心にぶっささる、痛々しくてどうしようもない青春や人間関係を描いている名作、ということになっている。周りの人にへらへらしながら怒りを溜め込むことを処世術として、いじめられていた中学時代や友達のいない高校時代を生きてきた私だから、妙に主人公に共感してしまったんだろうか。この映画の主人公が歯痒くてもどかしくて、でも他人事とは思えなくて、なんとも言えない気持ちで夜中に和室で転がりまわりながら見ていたことを思いだす。
このときの私の感覚を、今はまだ大切にとっておきたいと思っている。
だから、この映画だけは再上映されても見ないようにしようと思った。
痛々しい主人公たちの行動を生温かく見守る「大人」になるよりも、今はまだ、この主人公のように無軌道でどうしようもない気持ちをどこかに持ちながら生きている、と思い込んでいたい。
