冬が完全に過ぎ去ったことを確信して、朝から冬用カーペットを洗濯した。むき出しになった畳が涼しげで、明るい部屋がさらにすっきりと見える。じんわりと嬉しい、じんわりと幸せ。
午後、カフェに行ってスマホのバッテリー交換を待つ。WiFiがないカフェではただの音楽プレーヤーなiPadを傍らに置いて、手帳を書いたり、他の人たちの時間を眺めたり、音楽にギュンっとなったりして過ごす。角の席は居心地がよくて落ち着く。スマホを置いてオフラインしにカフェに行く時間が私には必要だったんだなあと気がついた。バッテリー容量75%を切ったスマホよ、そのタイミングを与えてくれてありがとう。
もともとはタコス屋かクーポンの使えるカフェに行こうとしていた。せっかくだし新規開拓しようと、スマホを預ける前に候補のお店をいくつか調べて場所を記憶する。タコスというかトルティーヤが食べたくて、だけど長く滞在できるような心地良い空間で温かいカフェラテが飲みたくて、そしてお財布に少しは優しい店が良くて、候補のお店をいくつか回った。でもどこのお店にもいま一つ惹かれない。
町をうろうろと彷徨い、いつも行っている定番のカフェの前を通りがかった。ここは確かに居心地がいいけれどタコス的なものはないだろう…と店先のメニューを見たら、ナチョスがあった。温かいカフェラテも。結局すべて最初からそこにあったのだった。
「ない」から追い求める。今いる場所よりさらに理想の場所があるのでは、と欲する。それが今までの私の生き方だった。その生き方や過去を否定するつもりはない。だけど今より理想の何かを欲したりしなくても、もうすでに私は全て持っていて、「ある」の中にいるのだとしたら。肩の力を抜いて、すでに私が享受している豊かさに気づくだけで良いのだとしたら。
温かい何かに包まれているような感覚が湧いてくる。これが安心と安全に浸っている感覚なんだと思う。私はずっとこれを求めていた。誰かに存在を認めてもらうこと、私のことを大切だと認識してもらうこと。そうすれば安心する、安全だと思える。自分がちゃんとここにいることを知ってもらえたら安心できるし安全なんだ。どうやったら誰かに知ってもらえるのかと考えた末に「表現をしなくては認めてもらえない、表現しなくては自分の存在を残せない」という思考にたどり着いた。そうでなくちゃ安心できない、安全ではない。だからやらなくては、何か爪痕を残さなくては。
でも、私は何もしていなくても、何もできなくても、存在しているのだ。生まれてきたから存在している。誰かが私を認識しなくても、私は私がいることを知っている。そんな当たり前のことに全く気がつかないまま、外側に安心・安全を求めて戦ってきた。最初から私の内側に全てあったのに。
全てあって、全て叶っていて、満たされている。
その状態で、さて、これから何をして生きていきたい?
私は、言葉にいっぱい出会いたい。
まだ言語化されていない感覚、感情、情緒、場面。目に見えない、言葉になっていないものたちに、私なりの言葉を見つけたい。存在証明のために言葉を扱うのではなく、ただ純粋に好きだからという気持ちで言葉を扱っていたい。だから私は本を読み、映画を見て、音楽を聴き、他者と交わる。言葉にまだならない感覚たちを忘れないよう、写真を撮る。いつかの私がそれを言葉にできるようになる、そう信じて写真を残す。ズレを感じてもどかしく、つたなさを悔やみながら、それでも言葉にしてみる。忘れないように、なかったことにしないように、消えないように。
それが私の望むこと。
