覚書

Essays / Notes

五月病とはよく言ったもので、連休の明ける頃、私はメンタルの調子を崩した。
はっきりした原因やきっかけはわからない。4月末頃から軽い鬱を感じてはいたものの、5月の連休に入ったら持ち直したので、よっしゃ治ったと思っていたら連休明け前にまた心がぐらっと。そのまま立て直せずに週末を迎え、人と喧嘩するわ泣くわ怒るわした末、エネルギーを使い果たした体は翌日全く動けなくなった。

私は病院で診断を受けたわけではないので、この文中での「鬱」は病名ではなく、激しめの「抑うつ状態」を指すと思って読んでほしい。

抑うつ的な気分は定期的に軽く押し寄せてくるので、もはや腐れ縁みたいなもんだと思ってわりと仲良くやっている。ただ、その憂鬱が激しくなると、気力が減退して、普段できている日常的なルーティンに取り組むことがしんどくなる。日記が書けないとか料理ができないとか、好きなことでもやる気が起きなくなる。それがさらに進行すると、最終的には体を動かせなくなって寝たきりになってしまう。

寝たきりと言っても、半身を起こしたり寝がえりをうったりトイレに行ったりすることはできる。ただ、お腹が減っても食事をとることができない(吐くとかではなくて食べる気力が湧かない)。眠いのに眠ることもできない。

要するに、排せつ以外のセルフケア行為が一切できなくなるのだ。それをやる意味や意義を見失ってしまうのだと思う。(嫌な想像なのだけど、一度トイレに行くことを諦めたらその後はもう立つこともできなくなるかもしれない。トイレに行けているのは、まだ私の中に理性や「死にたくない」という意思が残っている証左なのだと思う)

寝たきりになるほどの激しい鬱になるのは珍しいことで、去年はなかったような気がするから、2年ぶりか、もしかしたら3年ぶりかもしれない。まあ「なかったような気がする」というのは、私が喉元過ぎると熱さを忘れてしまうタイプだからでもある。なので、備忘録のつもりで今回の記事を書いている。

今の私はメンタルが回復している途中だ。完全回復とは言えないけど、ご飯を食べたいと思えるし、つい先日のこの憂鬱な感覚を文章にしたいと思えるほど回復している。今この記事を書いているのは、鬱になっているときの自分の感覚を書き残しておくためと、そこから回復したときの思考回路を(いつかの私のためにも)残しておきたいからだ。

鬱のときはとにかく何もする気になれない。
何をしたいかがわからないし、空腹や喉の渇きのような生理的な現象は感じるけど、それに対処したいと思えない。お腹は減っているのに、自分に食べ物を食べさせてあげる気力が湧かない。メールやlineの返信なんてもってのほかだ。頭が働かないから文字が読めないし、読めたとて何が書いてあるか理解できないから、何を言えばいいかわからない。

今回、体が完全に動かなくなる前に、パートナーに対して伝えたいことをちゃんと伝えられたのは幸運だった。布団に寝そべりながらlineを送信して、うとうとして目を覚ましたあと、起き上がれなくなっていることに気づいた。

いや、「気づいた」というのは正確じゃなくて、後から振り返ってみたらそうだったということだ。その時は「起き上がろう」という意思がなかった。寝そべっているだけの自分を嫌悪しながら、ただ寝そべっていた。起き上がればいいのに、と今は思うのだけど、なんというか、そのときはその「起きあがろう」という選択肢が存在しないのだ。

カーテンの閉まった暗い部屋の中で、自分は何をやっているんだろうとひたすら自分を責めて過ごす。こういうときの時間の進みは異常に遅い。喉がカラカラに乾いていたけど、水を汲みに行く気力はなかった。「面倒くさい」という気持ちを100倍にした感じ。喉が渇いたことに何の意味があるんだろう、みたいな。自分のためのあらゆる行為に意味を見出せない。

体を動かすには体力(HP)がいる。それと同様に、たとえば悲しいとか腹が立つとかの感情の動きには、気力(MP)が必要になるのかもしれない。鬱状態のときの自分責めは、悲しみや怒りによるものというより「虚無」によるもの、という説明が個人的にはしっくりくる。からっぽ。意味がないと感じる。私の存在に意味がない、何もない、という感覚。ただ、そう自分責めしながら涙が出てくるのは、生きていたいと望む私の自我がどこかにあるからで、だから私はいつも立ち直れているのだとも思う。

今はもう捨ててしまったのだけど、一昨年まで私は手帳の中に「コーピングリスト」を入れていた。鬱や希死念慮に襲われているとき、人の頭はパニック状態になっていると言う。その状態では、死を回避するための行動や認知の仕方をとっさに思い出せなくなる。なので、認知行動療法の一環として、紙やスマホのメモに鬱状態になる時の前兆や希死念慮から逃れるために有効な行動などを書いておいて、定期的に見直すことが推奨されているのだ(※)。私もそのガイドラインに従って自分なりの行動・認知コーピングリストを作っておき、以前から定期的に見直していた。ただ、一昨年にカウンセリングを卒業していた私は、もう大丈夫だろうと思って紙を捨ててしまっていたのだ。

※ちなみに、これは「心理的危機対応プラン(PCOP)」という名称でガイドラインや手順が無料配布されているので、興味のある人はぜひ見てみてほしい。

リストは捨ててしまっていたけれど、定期的に見直していたこともあって内容はなんとなく頭に入っていた。今回すぐに深い鬱状態から戻ってこられたのも、認知コーピング(認知の転換)がきっかけだった。それを思い出せて運が良かったとも思う。幸いにも、自分のことを「役立たず」「意味がない」と責める声に対して、「そうか、私は、誰かの役に立ちたいんだ」「私は意味を感じることをしていたいんだ」「だから自分を責めているんだ」と気づけた。そして、その願いが過剰すぎて苦しくなっている、と思った。

思った・気づいた、というより、思い出した、が正確かもしれない。これまでの傾向からして、私が鬱になるのはいつも「自分のありたい姿」や「未来の自分像」が見えなくなるとき(あるいはその圧が強くなりすぎるとき)なのだ。願いや未来を見失うから、今ここで何をしたらいいか/何をしたいかがわからなくなり、虚無にやられる。私はとことん虚無に弱い。寂しさは可愛いもんで、孤独も明るく飼い慣らしているけれど、虚無に触れると混乱してどうしたらいいかわからなくなってしまう。これはいつものパターンだった。

それに気がつけたのはパニックが少しおさまった証拠でもある。「私はいま冷静じゃない」と気づけると、不思議と冷静になれる。何をやっていても意味がなくて同じことならYoutubeでも見よう、と動画を開いて現実から逃避した。これも立派なコーピングで、実際にリストに書いていた行動でもある。(これを思い出すまでに時間がかかるので、文字化されたリストを所持しておく必要があるのだ)

そこから少しずつ体を起こして、21時を過ぎたころ、やっと台所に立つことができた。冷蔵庫をあけてヨーグルトを食べた。食べようと思えたから大丈夫だと思ったけれど、寝室に戻るとまたぶり返すかもと懸念して、念のため明日食べるための料理をそのまま作り始める。こうして一歩ずつ自分の生活の感覚を取り戻していった。

もちろん本当は、「ただ居るだけでもただ存在しているだけでも良いのだ」と、「役に立たない」という自分責めの声に言い返せるのが一番良い。

たとえば、私が親であれば子に対して「何者かになれ」とか「お金を稼げ」とか「人に苦労かけるな」みたいなことを真っ先には思わないはずだ。まず最初の大前提は「生まれてくれてそこに存在してくれて呼吸してくれて心臓が動いてくれていてありがとう」だと思う。いや、もしかしたら感謝の前に、ただただびっくりするかもしれない。私という人間から別の生物が発生してこの先を個別の脳みそと個別の心で生きていくという、生命の不思議さに畏怖を覚える。
とにかく、そういう心の動きや本能的な感情が最初に来るはずで、「こういう子であって欲しい」という行動ベースの願望(思考)はそのあとの話だ。
そしてたとえ希望通りの子に育たなくとも、その存在が生まれたことで感じた私の驚愕や感動や愛情や感謝の経験は消えないのだから、その子の存在を遡って否定することだってしないだろうと思う。

とはいえなかなか「ただ存在する」を自分には許してあげられない。寝たきりになって何もできない、人とコミュニケーションも取れなくなった自分に茫然とし、役に立たない者が存在していて良いのか、と自分を責めてしまう。

そんな人のための認知“行動”療法である。先ほどの子供の例のように、基本的にDoing(すること)は、Being(存在すること)を土台にしている。つまりBeingを認められたら手っ取り早いけれど、でも自己否定が止まらなくて自分が今ここに存在することを許せないときは、平常時に作成した行動・認知のコーピングリストの内容をまずは「する」ことが良いと思う。

ただし、Doingだけでは心の平穏は長く続かない。コーピングリストを含むPCOPはあくまで危機的な心理状態になっているときの脱出手段、つまり病気のときに薬を飲むようなものなので、一度体調が持ち直したなら今度は根本治療をしたほうが良い。そのときにBeingに目を向けるのだ。

もちろんまだ私は親になったことがないから、実際のところ子供に何を思うかはわからない。ただ、「居るだけでいい」「息吸ってることがありがたい」は私が同居猫のムギさんに対して日々感じていることだ。ムギさんを見ていると、ときどき不思議な気持ちになる。私と異なる言語体系で生きている生物、その小さな脳みそで何を考えているのか全くわからない未知の存在は、私と同じように血が流れていて温かい体温をしていて、食事をして水を飲んで用を足して、彼なりの時の流れの中を生きている。不思議で、愛おしい。理解できなくても存在がただそこにあるだけで感謝できることを、彼は教えてくれたのだった。

というわけで、子供や愛しい存在に対するのと同様に、私自身に対しても「息吸ってるだけで良い」「そこにいるだけで良い」と、どんなときでも自分というBeing(存在と状態)を受け入れて過ごせるようになること。これが私の生き方のベースに置いておきたい考え方だ。

Youtubeや料理で持ち直した翌日、手帳に自分が今ここで感じていることをひたすら書いていたら、だいぶメンタルが良くなった。久しぶりにコーピングが必要なレベルまでメンタルが落ちたので忘れていたけれど、この手順を踏まずに前日の状態で「私は存在するだけで良い」と認めようと思っても、なかなか難しかったかもしれない。

ここで言う「認める」とは、自分の良いところを探すとかポジティブに肯定するとかではなくて、例えば布団に寝たきりになっていることを「体が動かない、だから寝ている」とフラットに捉えるところから始まる。そこには善悪の判断がない。「しっかり寝るって体に良いことだよね!」という捉え方もしないし(これは認知コーピングの一種のリフレーミング=Doing)、寝ていることを悪ともしない。ただ寝ている。体を動かせないから寝ている。それだけ。そうやって自分の現状の姿を一つ一つ、フラットに言語化して認めていく作業。これが「自分の存在や状態をただ認める」である。

すぐに良い悪いの話をしそうになってしまうから、これは簡単なようで最初は難しいかもしれない。瞑想のようなものなのだ。やったことある人はわかると思うけれど、瞑想は頭のなかを空にする=何も考えないようにする、ではない。「何も考えないようにするぞ!」と息巻いて思考を手放すことは難しい。そうではなくて、瞑想は流れていく思考をそのまま眺めるようにする練習なのだ。まずは善悪のジャッジを手放すところから始まる。それをずっと続けた先に、気づけば何も考えていない時間があるのだと思う。

とまあ、今回の経験が鮮やかなうちに、回復プロセスを含めたメモを残しておいた。コーピングリストは念のためもう一度作ろうと思う。

ただ、鬱状態になることを避けようとは実はあんまり思っていない。憂鬱になりやすいのは生来的な部分もあると思うし、鬱になれるから書けるものがある気もするのだ。この状態を自己憐憫で終わらせるのではなく、スキルや才能として用いて、私にしか書けないものを書きたい。混沌の淵のぎりぎりで生きてみたい。まあ薄々わかっていたけれど、私は鬱に対する好奇心に取り憑かれている。

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