生きている人の一瞬を垣間見る、たとえそれが7年でも30年でも、その人の多様な生/顔からすれば時間的にも空間的にも”一瞬”を”垣間見る”だけで、何かわかったような気になって何らかを結論づけることの恐ろしさや傲慢さ。
でも、何かをわかってもらったような気になった時の喜びや安堵も知っている身としては「わかった/わかっている」と言うことを一概に否定もできず、自分はどれくらい「わかっている」と言えるのか、本人の中にある本人にしかない感覚/モノにどれくらい近づけているのか、と自問自答が続く。
アルキメデスの亀じゃないが、無限に追いつけない、ミリやナノ単位でも差異は必ずあって、むしろその差異の存在が人を「個」たらしめ、「個」それぞれの人生があることを私に思い起こさせ、「個」のひしめき合う世界に美しさを感じさせる。
その「個」が破壊されることのないようにと思うし、私がそれに加担しないように、と心がけるとやはり安易に「わかった」とは言えなくなる。でも「わかりたい」と思っていること、昨日1ミリあった差異が今日は0.5ミリになっていますようにと願っている。
それが私の終わらない論文執筆や研究、さらには他者との終わらないコミュニケーションを生み出しているのだとしても。

